水戸勝田支部 『元気会』報告 (令和3年11月度)

2021年11月15日

元気会幹事 天野慶次郎(昭56学機)

新型コロナウイルス感染症も大分落ち着きを見せつつあることから、しばらく中止しておりました元気会(自己啓発・グループ勉強会)を11月より再開いたしました。今後も感染状況を注視しながらの活動となります。

以下に11月度の講義内容を紹介します。

一病息災

開催日:2021年11月11日

講師:古平 恒夫(昭41学金)

1.西郷隆盛

1)生涯(1823.1.23~1877.9.24)

 西郷隆盛は薩摩藩の下級武士であったが、藩主の島津斉彬の目にとまり抜擢され強い影響を受けた。斉彬の急死で失脚、国父の島津久光と折り合わず奄美大島、徳之島、沖永良部島に流罪に遭う。しかし、家老・小松帯刀や大久保利通の後押しで復帰し、薩長同盟の成立や王政復古に成功し、金門の変(1864年)以降に活躍し、戊辰戦争を巧みに主導した。江戸総攻撃を前に勝海舟らとの降伏交渉に当たり、幕府側の降伏条件を受け入れて総攻撃を中止した(江戸無血開城)。

その後、薩摩へ帰郷したが、明治4年(1871年)に参議として復職。更に、その後には陸軍大将・近衛都督を兼務した。明治6年(1873年)大久保、木戸ら岩倉使節団の外遊中に発生した朝鮮との国交回復問題では開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴くことを提案し、帰国した大久保らと対立、この政変で江藤新平、板垣退助らと下野、再び鹿児島に戻り私学校で教育に専念する。佐賀の乱、萩の乱など士族の反乱が続く中で、明治10年(1877年)に私学校生徒の暴動から起こった西南戦争の指導者となるが、敗れて城山で自刃、別府晋介が介錯した。

死後十数年を経て名誉を回復され、位階は正三位。功により皇嗣の寅太郎が侯爵となる。

2)持病、エピソード

隆盛は身長180㎝、体重110㎏の巨漢。日本最初の陸軍大将で馬に乗れる身分であったにもかかわらず乗らなかった。理由は前述のように、奄美大島、徳之島、沖永良部島への島流し時代に、蚊を媒介にしたリンパ管フィラリア症による陰嚢水腫を発症し、騎乗が困難であった。恥ずかしくもあり厄介なこの病気を抱えながら、その後も治療がかなわないまま各地を転戦していった。

西南戦争において城山の戦いが終わり、死体検死が始まった。通常の場合、首のない死体検死は難しい作業になるが、股間の陰嚢水腫によって西郷本人と容易に判定された。明治天皇は死を知らされた際、「西郷を殺せとは言わなかった」と漏らしたとされる程気に留めていた。「敬天愛人」の座右名で知られる西郷は、国際情勢の全体像を冷徹に見渡せる視野の広さと同時に人の悲しみを己の悲しみとして心から痛く思う慈悲心とを併せ持ち、下の者から慕われるリーダーとしての品格を持ち合わせていた。長い歴史を持つ日本においても、なお類ない世界に誇るべき英傑だった。

2.伊能忠敬

1)生涯(1745.2.11~1818.5.17)

 伊能忠敬は日本で初めて実測による日本地図を作った人である。1745年2月11日、千葉県九十九里町小関の名主でいわし漁の網元をつとめる小関家に生まれる。2男1女の末っ子だった。18歳の時千葉県佐原市の伊能家に婿養子となり、忠敬と名乗る。伊能家は佐原村でも名家で知られる豪農で、造り酒屋なども営んでいたが、忠敬が養子に入った頃は傾きかけていた。忠敬は商才を発揮し、家業の醸造業を多いに盛り立て米穀売買にも手を染め江戸深川に薪炭問屋を出し、金貸しも始めるなど、家業を拡大。37歳からは佐原村の名主となり、水害・飢饉の際は積極的に困窮した村民の救済に尽くしたことから、苗字、帯刀を許されている。

50歳で家督を息子に譲り隠居生活に入るが、このとき家産30万両(約75億円)を残したといわれる。いわばどんな贅沢三昧の老後をおくれた筈だが、この男は51歳で江戸へ出て、幕府天文方・高橋至時(よしとき)に弟子入りし、星学・暦学(天文学)を学ぶ。そして、寛政元年(1800年)、蝦夷地(北海道)の測量を皮切りに、56歳から72歳までの16年間「二歩で一間」の歩幅で日本中の海岸線を歩き、ついに実測による「大日本沿海輿地全図(だいにっぽんえんかいよちぜんず)」を完成させた。この間に忠敬が歩いた距離はざっと3万5千キロ。歩数にして約4千万歩に及ぶ。

忠敬はもともと算術が好きで、向学心旺盛な男だったが、入り婿の宿命で家業に精を出さざるを得なかった。そのため隠居生活に入って初めて、自分本来の人生をスタートさせたといえる。「人生を2度生きた巨人」といわれる所以である。

2)持病、エピソード

忠敬は若年時代から虚弱な体質で喘息の持病があったが、測量隊では最長老でありながら、誰よりも先んじて測量や天体観測にあたった。老いてもなお疲れを知らない忠敬だった。しかし、病魔は体を容赦なく襲い1809年から始まった四国測量調査の時、63歳を過ぎた忠敬は「痰咳発作」で苦しむことになった。慢性気管支炎による喘息は長い経過をたどるのが通常で、徐々に悪化していき、最後は急性肺炎で死去するケースが多い。忠敬は1818年、病の床に倒れ、江戸亀島町の屋敷で大勢の人々に看取られつつ大往生した。享年74歳。

忠敬のスキルを物語るエピソードがある。1801年、忠敬は奥州街道を帰る道すがら、天体観測と方位測定をやって、緯度1度の長さを出すことに専念した。江戸に着き、何日も費やして計算し、緯度1度の長さを28里2分(約110.75km)と独力で弾き出している。これが師匠の至時をうならせることになった。西洋から取り寄せた最新天文学の書籍「ラランド暦書」の書かれている緯度1度の長さが忠敬の測量数字にピッタリ合っていた。

3.結び

 病を人生の伴侶として取り込み一病息災の生き方をする人がいる。人間は絶体絶命の窮地に陥ったとしても生きる希望を捨ててはならない。諦めこそが死地に追いやる最大の敵であるからだ。死地を抜け出した人ほど強い者はいない!

(参考文献:池永達夫「偉人・英雄列伝」、コスモトゥーワン(2010.5.21)他)

学術研究を侵食する粗悪学術誌「ハゲタカ」への対応

開催日:2021年11月11日

講師:吉田 一廣(昭34学機)

◆文科省の調査

 掲載料を目的にずさんな審査で論文を掲載するインターネット専用の粗悪学術誌「ハゲタカジャーナル」(ハゲタカ誌)が増えている問題で文部科学省は、ハゲタカ誌に対して何らかの対応をとっている大学は36%に留まるとのアンケート結果を公表した。国立大学は8割が対応していたが、私立大学では3割に満たなかった。

◆ハゲタカ誌とは

ハゲタカ誌は、ネット上で世界に無料公開されている学術誌で、近年急増している。その特徴は、

〇著者とは別の研究者による論文の審査(査読)が不十分

〇著名な研究者を編集委員として無許可で掲載

〇出版社の所在地が不明

―などとされ、著者が掲載料を払えば論分がそのまま載るケースもある。研究者は、研究論文が学術誌に掲載されないと業績と見做されないため、安易に業績を得られる手段として日本の研究者の投稿も後を絶たない。

◆全国大学での注意喚起の状況(調査結果)

調査は5~6月、全国の国立大学86、公立大学94,私立大学620の計800大学を対象とし、ハゲタカ誌に論文投稿をしないよう促す学内での注意喚起の実態などを聞いた。6月下旬までに全国立大学を含む582大学から回答があった。回答率73%。

調査結果によると、パンフレット作製や注意喚起などの取り組みを実施しているか、実施予定としたのは全大学の36%であった。

国立大学は81%と対策が広がっていることが分かったが、公立大学は37%、私立大学は27%に留まった。

取り組みで最も多かったのは、注意喚起で約40%、パンフレット作製やウェブサイト作成が約20%、論文投稿説明会の開催が14%だった。

自由記述では各大学から、研究倫理教育の場や論文投稿に関する講習会などで教員に注意喚起しているとの報告があった。また、最近の懸念すべき事例として、大学が発行する学術誌を装った偽物の「学術誌」が出始めていることや、研究者からの相談で「投稿後にハゲタカ誌と知ったが論文の撤回に応じてくれない」との事例もあった。

調査結果は10月26日の文科省科学技術・学術審議会情報委員会で報告された。学術誌に関する論議を続けてきた同省ジャーナル問題検討部会主査・引原隆士・京都大大学院教授は「研究の信頼にかかわる問題。今後、政策を検討する上でエビデンス(根拠)として活用して欲しい」と述べた。

ハゲタカ誌の問題に詳しい同志社大の佐藤翔准教授(図書館情報学)は国立大学と公立、私立大との間での対応の差について、「英文学術誌へのの論文投稿が重視される理工系の研究に力を入れているかや、業績を求める若手研究者の在籍状況を反映しているのではないか」と分析。その上で「他人事と考えず、問題の存在を認識して欲しい。騙された研究者のキャリヤをどう守るかも重要だ」と語った。

(出展:毎日新聞紙(2021.10.28)より)

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