寄稿「来 し 方 点 描」古平恒夫(昭41学金)(支部会報第44号より)

寄稿 来 し 方 点 描

古平 恒夫(昭41学金)

終戦間近に水戸の地で生まれ、オランダに1年、仙台、東京で各々2年間を過ごした以外は、今日までずっと茨城県に住まいしております。その間、多くの方と出会い、幾多の出来事に遭遇し、沢山の経験を積みました。その中で脳裏に去来する忘れ難い思いを以下に記します。

1.Voormalig Leraar

オランダ語で恩師のことです。1973年の1年間、家内と2歳の長男を連れて渡蘭し、デルフト工科大学機械工学科原子力工学研究室Latzko(ラツコ)教授の下でReseach Fellow として勤務しました。テーマは圧力容器の構造強度評価の基礎となる弾塑性破壊力学に基づく亀裂進展解析でした。当時この分野は勃興期で日本では研究者も少なく、欧米の若手が最先端を走っておりました。教授はハンガリー系オランダ人で、眼光鋭く周囲がAwfully Cleverと呼ぶ程頭脳明晰で、その出自から人一倍努力されて教授になられたと聞きました。お人柄は温厚、誠実、人格高潔で、1週間に1度面談頂き丁寧にご指導頂きました。私生活面では何回もお宅に招かれ、奥様、ご子息とともに温かいおもてなしを受けました。帰国後は学んだ成果をベースに研究を一気に加速できたことは言うまでもありません。教授との交流も密に継続し、国際会議でお会いする他、3度来日されました。その折は関係者が家族とともに参集し大変楽しいひと時を過ごすことができ、先生もとても喜ばれたことが思い出されます。

Latzko 教授

2017年5月にご子息から教授がご逝去された旨の手紙が届きました。92歳でした。クリスマスカードではお元気のように感じておりましたが、大変驚き丁重にお悔やみの弔辞をお送りしました。自分の人生の中で恩師の一人として、生涯忘れ得ぬ心から尊敬する大先生です。

2.股関節

定年後第2の人生を始めて間もなく、左足の股間に痛みを感じました。夜もなかなか眠れないほど痛みが増してきたので、掛かり付けの整形外科に行ったところ水戸済生会総合病院を紹介されました。CT、MRI診察の結果、大腿骨頭壊死(原因は諸説あり、不明)と診断され、人工関節の手術は時期尚早なので、痛み止めを服用しながら経過観察することとなりました。杖を突きながらの生活を余儀なくされ、好きなゴルフも控えておりました。2011年12月に骨頭の形も崩れてきたので人工関節を入れる手術をしました。体にメスを入れるのは初めてで大変不安でしたが、執刀医は多くの経験があり名医との評判でした。3時間余の手術で左股関節をチタン製の人工関節に取り換え、3週間の入院で帰宅できました。知人等からの情報では、リハビリ後も順調に回復しない例が多々あると聞いておりましたが、完全回復、何の支障もありません。今思うことは、運、不運に係る人生における巡り合わせの機微です。単なる確率の問題とは思えません。

3.東日本大震災

2011年3月11日、水戸で遭遇しました。食器、家財等が壊れ、生家の屋根瓦が落ちましたが身内に怪我等はありませんでした。

家内は宮城県の北部漁港の出で、TVで海が燃えている映像を見て大被害になっていると不安でした。しばらく電話等も不通、悶々とした日々を過ごした記憶があります。ようやく実家と連絡が取れ、親族の無事と家の被害はなかったことが確認できましたが、親戚の一人が津波の犠牲になり、住居、水産加工場等々大きな被害を受けました。2ヶ月後に食料、飲み物等を携え地震で凸凹になった東北道を走り被災地に向かいました。着いて驚いたことに、町の中心部はメチャクチャ、漁船、車等が高台や木の上に、鉄路は大きく曲がり果てていました。親族の無事を確認し、できる限りの支援をしてきましたが、その中で強く感じたことがあります。それは災害時助け合いにおける地域コミュニティーの絆です。海外メディアも驚嘆したように、避難所は不自由だろうと親戚、知人達が部屋を提供し、不足物資を分かち合い、支え合って復旧・復興に向けて頑張っている様子は感動的でした。震災で犠牲となった方々のご冥福を衷心よりお祈り申し上げます。

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