寄稿 変転(支部会報第45号より)

寄稿 「変転」

北條 勝彦(昭37学機)

【化学工場への配属から企業人生の‘変転’は始まった】

日立製作所入社後に日立絶縁物工場への配属社命を受けて機械工学科卒として座礁した思いであった。さらに、この年の10月には、化学品事業部の独立に伴い、本工場は、日立化成工業(株)山崎工場となった。新会社となって、これからどうなるのか? 特に若い社員は戸惑いを隠せなかった。ある日、事業所長と懇談の場があり、心の内を話す機会が有った。そこで「機械工学科卒? 何が専門だ! たかが2年間の専門ではないか! これからが本当の専門課程だ!」「私も機械科卒だ、一緒にやろう」と熱心に応じてくれた。さらに、今後何でも要望があれば聞くという約束も取り付けた。 

【初めて化学設備に触れて1年が過ぎた頃、更なる知識を求めて研修の必要性を要望した】

化学機械を学ぶ機会を要望していたところ、『日立製作所プラント事業部』への研修が叶った。入社2年目の春から約一年間の東京暮らしとなる。研修が終わり、配属先に戻ると、新体制の下で多くのプロジェクトが発足した。当初の配属時は『設備課』であったが、今度は『生産技術部』となり「新熱可塑性樹脂研究開発Gr」一員にも名前を連ねていた。

【プラント計画・設計・試運転から製造部責任者へ】

熱可塑性樹脂量産化に伴い、生産拠点を市原市五井地区へ移すことになった。わが部門及び我が家は、活動の場を市原市に移した。生活環境の‘変転’だけではなく、生産技術部(設備担当)から『製造部門責任者』へと転属になった。これは大きな‘変転’であり、これからの人生の岐路に立っていた。

やがて、更なる収益向上が課題となり、プラスチック加工機械の導入調査のため、イタリア・トリノへ向けて2週間現場を離れることになった。すべての出張課題の確認を終え、夕刻発の便で帰国の途についた。

【JALのTV放映で‘世界の変転’に出会った】

休みもなく2週間の調査を終えて、JAL内で夕食を摂った直後のニュースだった。それは、第一次オイルショックが勃発した報道であった。

工場へ戻ると出張報告どころか、明日の原料や燃料調達に右往左往していた。発注した加工機は結局、受電設備の容量上、当工場での稼働は許可されず、職場全体の改造が始まった。大きな‘変転’である。

【次に進みたい道の希望を出しては見た、が。・・・】

何かと相談に乗ってくれた当時の事業所長が「わが本社・事業部へ来ないか」と、誘ってくれた。ところが、「直後の常務会で、日立で研修を受けた君を良く知っている常務がいて、新設する『プラント事業部』へ転属してもらう事になる」と、連絡してきた。‘大変転’であった。住居は市原市から柏市へ移動した。

【雨に泥沼化する工場から新宿三井ビル35階へ】

『営業部部長代理』として、顧客ニーズの掘り起こしに全国を走り回った。『排水処理技術(産業排水・生活系排水処理)』中でも、産業系は、生産内容によって一品料理である。事前の分析と処理技術の研究から始めるので開発Gr体制との二人三脚である。その為、工場での業務が多くなり、兼務のまま、住まいを、東京都~下館市(工場)中間の野木町へ移した。

【プラント事業部関連の工場へ正式に転属】

この『開発部Gr』は、産業系排水を小スケールで再現して、処理法確立が任務である。最終的には現地の排水水質と処理水質の確認が必須で、プラントの性能・投資に影響を与える重要な業務である。

【『太陽熱システム・集熱器などの研究』を開始】

太陽熱利用技術の事業化が決定し、家庭用温水器、ソーラーシステム用高効率集熱器の開発等、次々に開発課題が増えて、所属は『工場専任』となった。

【工場職制『開発部長・ソーラー設計部長・品証部長・副事業所長など』を歴任し、再び『事業部』へ】

太陽熱集熱器・ソーラーシステム関連は社長が強く関心を示した課題で、関係省庁・業界・企業との調整にも駆り出された。中でも、豪州ソーラーシステム調査団(通産省)への参加、米国ソーラー工業会会員活動、(財)新エネ財団・太陽光発電委員会、ドイツ光発電5か国会議や研究所・大学における太陽光・水素利用技術調査など数多くの業務が舞い込んだ。振り返ると、何が専門だったのか? 下手の横好きのために 器用貧乏だったか? この半世紀は紆余曲折な人生の‘変転’劇であった。

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