寄稿「母校に思いを寄せて」 椎名 研人(平30院機)(支部会報第43号より)

椎名 研人(平30院機)

 今年度、新会員となりました椎名研人と申します。支部総会の場では諸先輩方の前で緊張していた私ですが、温かく迎え入れていただき、誠にありがとうございます。まずはこの場をお借りして御礼申し上げます。
 私は平成30年3月に茨城大学理工学研究科機械工学専攻を修了し、同年4月に工機ホールディングス(株)へ入社いたしました。工機ホールディングス(株)は主に電動工具とライフサイエンス事業の2分野で海外にも展開しているグローバル企業であり、「極上のユーザー体験」を創造すべく、私も日夜設計業務に微力ながらも尽力いたしております。
 さて、私が大学を修了してから、もうすぐ1年が経とうとしております。せっかくこのような機会をいただきましたので、私の人生の中で茨城大学がどのような存在だったのか、回想を書き記したいと思います。
 私は、1993年4月石川県金沢市に生を受けました。この頃の父は技術職として各地を転々と飛び回り、私も福岡や愛知といった場所に移り住んでいきました。少年期の多感な時期でありましたが、不思議と父に対する反発はなく、むしろ私にとって技術者の経験豊かな父は先生のようであり、師として尊敬しておりました。そんな父の影響もあってか、高校では数学や物理にばかり惹かれ勉強する、典型的な理系オタクに仕上がりました。この頃になると、高校生にありがちの自分の進路を如何に進めていくのか、というイベントが私にも待っておりました。そのような中で私に人生を左右する報道が2011年3月に飛び込んできました。東日本大震災です。このとき、私は遠く沖縄の地で修学旅行の真最中で、ホテルに帰りテレビをつけると、そこには津波に飲み込まれる街々の様子や大量の瓦礫跡が突如映り、「これは本当に日本での出来事なのか…」と愕然としたことを、執筆中の今でも鮮明に脳裏に焼き付いております。そして、福島第一原発事故の報道が始まると、世間で一気に原子力エネルギーについて注目が集まりました。私も注目した一人です。
 このような経験もあり、私の中で原子力について学びたいという気運が加速度的に高まり、カリキュラムが整っている大学を探すと、東海村に近い茨城大学の名が挙がりました。茨城県出身の両親の薦めもあり、機械工学科への入学の決心を固めました。
かくして茨城大学の門を叩くに至ったわけであります。
 大学に入ると勉学だけでなく、長年やりたかったアメリカンフットボール部に入部し精力的に活動したり、大学で知り合った仲間たちと見知らぬ地を旅したり、この頃の私は、とにかく情熱とパワーに満ち溢れており、今思い出すと気恥ずかしくなるような体験も人生で初めて学ばせていただきました。
 そのような中でも入学当初の気持ちは変わらず、講義では原子力関連の授業に積極的に参加したことを覚えております。大学4年の頃には、再生可能エネルギーの分野や数値解析の分野にも関心が広がり、  恩師である田中伸厚先生のご指導のもとCFD (Computational Fluid Dynamics:数値流体解析)研究室に所属し海洋エネルギー活用技術として波力発電装置の研究に日々勤しんでおりました。研究する喜びや成果がどのように形となって表れてくるのか、毎日が非常に楽しく、そのまま大学院での2年間も瞬く間に過ぎるほどでした。今思えば、「ものづくり」をする楽しさを根底から教えてくださったのが田中先生であり茨城大学であったのだと気づき、感謝の念に堪えません。
 執筆中にふと、研究室の後輩が今どのようなことを研究しているのか気になりだし、久しぶりに母校を訪ねてみました。すると驚いたことに、日立キャンパスの門構えが道路拡張工事で様変わりし始めていました。研究も私がいた時よりも格段に進んでおり、僅か1年の間ですが、世の中が光の速さで移ろいゆくのに比例して母校も変わっていくのだと感じた次第です。
 特に研究室で行われているVR(Virtual Reality)を利用した津波体験システムはよりリアルになっており、後輩たちの並々ならぬ努力の跡を垣間見ることができました。こちらはオープンキャンパスや「こうがく祭」などで誰でも体験いただけますので、ぜひ先輩方の忌憚のないご意見をお聞かせいただければと思います。
 私もこのような後輩達に負けじと「ものづくり」の醍醐味を謳歌して、母校とともに時代の変遷を歩んでいきたいと思います。

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